さくらんぼ。
爪をきれいにしてからというもの、写真が増えた。気が、する。
ダイエットに成功して薄着に挑戦できるようにひとがなるように、
いつも目に入ってくる指が美しく動いて見えるというのは良いことだ。
目に入ってくる物を、出来るだけ美しく、というのは
こんまりさんの著書から学んだのだっけ。
意外と奥の深いことなのだ、と。
思う。
ネイルサロンに行ってからずっと情緒が安定してるので、たいしたもんだなあと感じる一方で、
まあまあストレスを感じてたということか。
今まで禿げたネイルや、ササクレた指先が、ちらほらと目に入ってくる度に。
もふり常習犯。
もふもふは正しい。
じぶんの一部分でも、どこか気に入らないというのは
案外メンタル削られてく物なのかもしれんなあ。
それも、じぶん自身に水やりって事になるよね🥰
金魚、かわいかったね
ほんで気づいたんだけどさ、
メイクアップアーティストの藤原美智子さんの対談YouTubeみてさ
メイクもダンスもお洋服も下着もさ、
着てる最中、
着飾り
踊ってる最中はさ、
自分でその姿、
お気に入りの全貌は見られないわけよ。
じぶんだからね。
ネイルは見ることができる。
でも、
踊り
メイク
洋服はさ。
鏡がなきゃ確認できないものじゃん。
踊ってる最中は幸せ、
洋服もメイクも。
でも鏡がなく、一歩外に出たら?
、、、、、
他者へのプレゼンというか、
いきなりアウトプットというか、
表現というか、
、、、コミュニケーションとして成立しちゃうものじゃないか?これって?
ってハタと気づいてさ。
じぶんの姿かたちこそが、
他者に与える表現そのもの、
存在こそが
他者ありきのもの、
なのじゃないか?
結構これは深い気づきでね。
舞台ってそもそも他者へじぶん自身を捧げてくものだと思うんだけど、
それって日常がそもそもそうなんよね
ひとと関わらずには生きていけないの。
日常が舞台であり、
表現であり、
そもそも存在するだけで、
ひとに与えてしまうもんは、とても、あるんだ。
なんにもしなくても与えてしまうなら、
与えようと意図して生きたら尚更だ
こわいことでもある
でも
怖がらずアウトプットしていった先に
こうやってグッとくる真実に出逢うこともある
当たり前のこと
踊りは祈りであり
コミュニケーションであり
独りよがりな表現であったりする
そのどれもが正解なのだと
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